
松尾芭蕉は貞亨5年(1688年)の8月11日名古屋から弟子の越人と共に
古来、月で有名だった更科の里へと月見の旅に出た。
更科の地へ到着したのが、8月15日。それから3日間にわたりこの地に滞在し
俳句の会やら、地元の同好の士と宴会も開きながら観月したらしい。
その旅の距離は、おおよそ62里。250Kあまりにもなる。
その距離を4泊5日で踏破した事になり、1日あたりの走行距離は12里強
キロだと、何と48キロも歩いた事になる。
「更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、
ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人といふ。」と
更科紀行にある通り、
古来より歌に読まれた更科の里の月を見たいと
「そぞろ神」に心騒がされて旅に出ている。

それは、○○JOY や 山と渓谷 や 深田久弥 や
花の100名山 やらを読んで
その山へ行きたくなる、「やまのぼら?」と「風狂」で一緒ですね

昔の旅は、歩いて行く旅。そこには少なからず危険が有ったはず。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、
日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、
漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に
蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、
白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて取もの手につかず・・・山には危険もいっぱい有るのは承知しているけど、それでも
それに勝る、素晴らしい物が有る事を感じて山に登る気持ちと
同じですね(^^)

古人の1人宗祇の句
あひにあいぬ をばすて山に 秋の月 
正面入り口左側に、芭蕉の面影塚がありました。
俤や姨ひとり泣く月の友
正面に見える大きな石の塊が「姨石」です。

これが、「姨石」近景。
思っていた大きさを、はるかにしのぐ石の塊でした。
名月や 雪のやうなる 蕎麦の花 一翁
この句 景色が目に浮かびますよね?
姨捨の 田毎に 月を配りけり 臥雲
この句が、「姨石」の登り口に配されていました。

姨石の上でしばし、佇む。
そこは、まるで山の頂のような雰囲気。
右を見ると棚田が広がり
前を見ると、千曲川が蛇行し
遠く、高妻?妙高?黒姫?飯綱山?斑尾?高社山?根子岳へと山波が続く。
近くには、1000年を超えると言う桂の大木が若い葉を揺らす。

芭蕉が訪れたのは、8月15日。
夏の盛りだが、ここ信州では夜は秋の気配が漂う。
虫の声も夏の虫から秋の虫へと変わっていたはず。
空に浮かぶ月は、澄み渡る。
でも今は初夏。岩の上は、隣の桂の木が若葉を茂らせ希望に溢れていた。

長楽寺の岩から、公園への道は歩いて10分位の
軽い登りだった。
山桜が、時折吹く風に花びらを散らせていた。
「う?ん、よい感じ」

公園の句碑も見ながら頂上へと登る。

頂上から、下に見えるは姨捨駅への踏み切りだった。
山で慣れた足。元の道へ戻らずに、そのまま下る事にする。

踏切を渡って、すぐ左に姨捨の駅が見える。
そこから駅のホームに出ることが出来た。
姨捨駅は日本三大車窓の1つに数えられる素晴らしい遠景がある。
ここまで、来たら十分満足(^^)
更科の地は今から千百年くらい前の古今集に、読人知らず、題知らずの、
わが心慰めかねつ 更科(さらしな)や 姨捨山に照る月を見ての歌があり、これから「大和物語」「今昔物語」の伝説が生まれ、
さらに世阿弥によって謡曲「姨捨」となった歴史の地。
姨捨山登山から芭蕉の面影を訪ねて、口ずさむ句は侘しくも有り楽しくも有り。山登りの新しい体験でした(^^)
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